母のおりん
高本 美幸

 「今度会ってほしい人がいるの。」
普段と変わらないふたりきりの夕食の席で精一杯さりげなくそう告げたのは例年より少し早めの初雪の日だった。
「前みたいな人はよしてよ。」
さっぱりとしたしかし僅かに棘を感じる母の口調にかろうじて苦笑を返した。
「今度の人は大学院まで出ているし、上場企業に勤めているちゃんとした人よ。きっとお母さんも気に入いると思うわ。」
私は母の機嫌を損ねないよう出来る限り友好的に言ったつもりだった。
「そういうことは関係ないのよ。」
と母は蜜柑を剥くその手を止めず、少し面倒臭そうに言い捨てた。
 まだ日陰のあちらこちらに膝の高さほどの雪のかたまりが残る土曜の午後。自宅に向う足取りが重たく感じられるのは底の厚いブーツのせいではないと自分が一番よく分かっていた。母はこの人を如何ほどに査定するだろうか。客商売が長い母はどんなに忌まわしい相手にも完璧な対応をする。三十年近く一緒にいる私ですら感じ取るのは不可能に近かった。笑顔で彼を迎え入れた母は、案の定、終始愛想がよかった。出身はどこか、どんな仕事をしているか、娘とはいつどこでしりあったのか、など通り一遍の当たり障りのない会話が小一時間ほど続いた。何かのセールスの電話を切って母が戻ってきた。そろそろお開きにしようか、とタイミングを探っていると「お暇する前にお父様とご先祖様にお線香をあげさせていただきたいのですが。」
と彼は茶の間の隅っこに目を遣った。それまでの貼り付けたような笑顔が一瞬崩れ、母の目が僅かばかり見開かれたのを私は見逃さなかった。
 翌朝の日曜日、私は部屋着のまま早めの昼食を準備していた。
「あの子ならいいと思うわ。」
唐突に発せられた声に振り返ると、母の視線は私ではなく目前の仏壇に向けられていた。それは父に話しかけるというよりも、己の決意にも似た気持ちを確かめているかのように感じられた。三年前、母が珍しく無理をして買ったおりんの澄んだ音色がいつもの朝より少し優しく響いた。