生命(いのち)を呼ぶ音(ね)
鈴木 みのり

 いつかの夏休みに、祖父母の家へ姉の私だけでお泊りに行った。
 「ご挨拶やお手伝いも、ちゃんとするのよ」
 見送るきわまで、母はそう言い続けた。生真面目な姉は心に刻むように頷き、呑気な私は母の真剣な表情をしげしげと観ていた。
 「おばあちゃんてば、朝の三時からチンチーンってするんだもん。寝られないよぉ」
 もう四半世紀以上経ち、祖父母も鬼籍に入って久しい頃になっても、あのひと夏を姉はそう言って愚痴る。
 「そうだっけ。私は、そうやって起こされたから、朝靄ってのを初めて見たとかが嬉しかったけど」
 「あんたは、ほんと呑気よねぇ」
 そう言って少し嗤う姉。でも私にはもう一つの思い出があった。姉には言えないが。
 私は、祖母の鳴らすあの鈴(りん)の音が好きだった。平凡な音なのに至極懐かしくて、朝一番にその音で目覚める瞬間が、至福の時に思えた。そんな思いが歳月の経つほどに強くなるのは、一度音を失ったからかもしれない。
 あの時も夏だった。訳がわからない嘔吐と胸痛に襲われ、這うように階下の母の元へ行き助けを求め、病院へ着いた頃には私の耳はパタンと音を絶っていた。
 自分の声も、感じない。ただ、アタマで生む言葉を、習慣で得た口の動きと、喉の振動で、「喋っている」ことにしているよう。
 眼に映る日常のあらゆる情景が、ミュート状態で見る画像そのもの。そして、その視覚では捉えられない「気配」というものまでも感知出来なくなったことで、私は自分が一枚の木の葉のように、在所を感じられぬちっぽけな漂流物になった気がした。
 夜が、一番怖かった。目を閉じれば寝床からふわりふわりと離されても判らないから。
 「たすけて。たすけて。たすけて」。シーツを握りしめながら、うつらと眠った時。
 ちーりーんと、音(ね)を感じた。眼を開くと、窓の外は薄墨色。時計は三時を示していた。
 「おばあちゃん」
 私は、居間の仏壇へ物狂いの人のように行き、座り、一呼吸吐き、鈴(りん)を打った。
 わーん。と、くぐもった音でしか感じられなかったが、音を、音が、私の耳が感じたことに、私は耳と喜びを分かち合うように両手で耳を抱いた。
 「お母さんが里帰りした時も、おばあちゃんは朝三時から御勤めしていたの?」
 「そりゃそうよ」
 「じゃ、私はお腹の中で、その音(ね)を聴いていたんだね」
 「うん?あ、そうね。それが何?」
 「なんでもなぁい」
 もう、あの家であの時刻にあの鈴(りん)を鳴らす人は居ないが、私の中であの音(ね)は響き続ける。